山崎龍明著

『濁世を親鸞と生きる』

四六判上製・244頁 定価1800円+税
 不況・倒産・リストラ・自死、政治不安・テロ……先の見えない現実。しかし、この混迷した現実を生きる自己も又、頼りなき、不実極まる自己である。

 八百年前、末法濁世のただ中で真実を求め続け、人生を全うした親鸞。今こそ私たちは、不確かな現実を見つめ、人生を、より確かなものとするために、親鸞に問いたずね、親鸞と共に生きていきたい!


  人間は何かに成ろうとしている。何に成ろうとしているのか、それが見つかるまでは落ち着けない。そういう人間観を仏教は見いだしたのです。そういう歩みをしてほしいというのが法然上人や親鸞聖人がおっしゃったことです。そこから初めて私の人生が始まる。今まで生きていたが、それは、都合を生きてきた。それは人生でもなんでもなかった。有頂天になるか、コンプレックスを持つか。そういう生き方はお恥ずかしい生き方でした、という目覚めをいただいていく。非常に深い教えをいただいているわけです。  (著者・本文より)
○素朴な質問だと

以前にこんな話を聞いたことがありました。ある男性が、毎日毎日同じ時間にジョギングしていたらしいんです。そして何ヶ月後かに、いつも掃除しているお寺の住職と顔見知りになったので初めて「おはようございます」という声をおかけになったんです。その時、住職が男性に「あなたは毎日決まった時間に走っていらっしゃるけれども、なんで走っているんですか」という質問をなさったんです。男性は、「長生きするためですよ」「長生きしてどうするんですか」。みなさん「長生きしてどうする」って聞かれたら、ちょっと言葉に詰まるんではないでしょうか。
 それでその男性の方は、なんで長生きするんだろうかとその後ずっとお考えになったんでしょう。何ヶ月かしてから声をかけてくれた住職のお寺の法話会に初めて行って後ろの方に座っていたというんですよ。そして住職が、「あなたはいつも走ってらっしゃる方ではないですか」って聞くと、「ハイそうです」って答えたらしいんです
 住職が「なんで今日来られたんですか」って聞くと、「実は、住職がずっと前に長生きしてどうするんですかって言われたけれども、どう考えてもわからない。ひょっとしてお寺でそのことを聞かせてくれるかもしれないと思って今日お寺に参りました」と。この「長生きしてどうするんですか」という質問は、仏法に生きる住職の素朴な質問だったと思うのです。

○人生は苦なりと

みなさんお経を読まれることがあるでしょう。お釈迦様は「生苦」ということをおっしゃいました。生まれる苦しみと書いてありますね。皆さん生まれるときの苦しみって経験ありますか、産んで下さるお母さんは命がけですがね。でも生まれてくる私たちは、その苦しみを実感できないわけですよ。じゃあなんでお釈迦さまは生まれる苦しみとおっしゃったのか。私はこういうことだと思うんです。いのちを賜ってこの私が生まれてくるということは、男性とか女性とか、性格とか好みとか一切のものを選ぶことが出来ない。丈夫な体に生まれたいと思ったってそれは詮無いことです。丈夫に生まれて、周りの者から大事にされて、たいした病もせずに100歳になったらコロっと死ねることを約束されていたら、こんな幸せなことはない。でもこれらのことは選べませんもんね。
 生まれるということはそれ自身、実はさまざまな無数の苦しみの中にいのちを恵まれてくるんですよと。人生は苦しみなりというのが、お釈迦さまの出発点だったのです。でも私たちはそうじゃないんですよ、楽しいこともあるんです。みなさんもそうじゃないですか。先ほどの話ではありませんが、どうして長生きしてゲートボールの点数を上げたいとか、いろんな所へ行きたいからもう少し長生きしたい、こういったことが願いとしてありますよね。
そんなことを考えますと、生まれること、そして人生は苦しみであるというのは、楽しみがいっぱいあると思っているけど、よく胸に手を当てて、生きること、いのちのことを考えますと、苦しいことが実に多いと言えませんか。その苦しみを見届け乗り越える道が「ここにありますよ」とおっしゃったのが、お釈迦さまの人生は苦なりということだと思うのです。どんなに偉い学者が、自分の業績や知性を誇ったとしても、いのちの事実、つまり老いて病んで死んでいくといったいのちの深い問題は、みんな抱えていかなければならないのです。

○宗教や信仰は縁

 実はみなさん、今日の講題の「濁世を共に生きる」という言葉ですが、濁世の「濁」という字は濁りであります。『阿弥陀経』というお経の後ろの方に、「五濁悪世、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁」(聖典133頁)というのがありますよね。劫濁というのは時代の濁りのことですね。こんなに教育水準が高くなり便利で快適になっても、時代はどうしていい方向にいかないんでしょうか。次々と目をふさぎたくなるような悲しい問題が、身近にも遠いところにもいっぱいあるじゃないですか。これを僕は時代の濁りと申します。
 次に見濁ですが、これは自分の宗教だけが唯一絶対で、他の教えは間違いというような考えです。みなさん宗教とか信仰というのは縁(えにし)ですよ。ご縁があって親鸞聖人の教えをいただき、それを生きる喜びとする。僕は信仰というのはご縁だと思うんです。ですからそういうみ教えを一つまな板の上に乗せて、どの宗教が一番優れているかという発想は、私はあまり適当ではないと考えます。だから私たちはその縁を大切にしたいと思うのです。見濁というのは、そういう意味で濁りです。

○2500年前に

煩悩濁とは欲望、怒り、愚痴のことです。人間というのはお互いに悲しいものです。忙しすぎても暇であっても愚痴や不平、不満が出ます。欲望とか怒りの心を持つということは、自分の思い通りにいかないからですね。自分のこころ、体ひとつを思いどおりに出来ないのに、私たちはいろんな人を思い通りにしないとすまない心があって自ら傷ついていきます。これを煩悩の汚れと言います。
衆生濁というのは、親が子どもを殺し、子どもが親を殺したり、血を見ることに喜びを見る時代。人間の質が著しく低下する時代。つまり人間が悪くなることです。そして最後の命濁というのは、これは寿命短小とあります。世の中が便利で快適に進んでいき、いつでも何でも食べられる反面、食品汚染の問題があります。また、大気汚染もあります。そして寿命がだんだん短くなっていくという。
 お釈迦さまは、こういうことを2500年も前におっしゃったということが一つの驚きなんです。しかし悲しいかな、この予見が当たっているんですよね。でもお釈迦さまは、やがて時代がこうなって五濁悪世、どうしようもなくなりますよと言ってるんではないんです。親鸞聖人の著わされた『浄土和讃』のお言葉をいただきますと、「五濁悪時悪世界/濁悪邪見の衆生には/弥陀の名号あたえてぞ/恒沙の諸仏すすめたる」(聖典486頁)とあります。

○手を取り合って

先ほど申しました五つの濁りと、自分だけが正しくて自分以外すべて間違っているから私は不幸なんだ、うまく生きられないんだと。このように自己以外のものに原因を見届けようとしているものの考え方、そういった私たちに対して、「まことの道理」を説かれたのがお釈迦さまなんです。真実の道理を聞きながら、いのちを養い、いのちを育み、いのちを育てる南無阿弥陀仏の教えをおすすめになられたのです。
いのちの重さ尊さは、みんな同じです。でも私たちはその大事な教えに出遇うということが、いつの間にか二の次、三の次にんまっています。そのうち、そのうちと言っているうちに死んでしまいますよ。今ですね、明日はどうなるかわからない。だからこそ、その尊いことにまず気付かせていただくところから、すべてのものと手を取り合って生き、この濁世をともに生きる世界が私は生まれてくるのだと思うのです。私はそれを実現していきたいと思っています。
(10月10日暁天講座抄録/南御堂2003年11月1日・第495号より)

定価1800円+税
四六判上製216頁

こちらも好評発売中!
『今を確かに生きるために』

私たちが作り出した自我むきだしの傲慢な社会、「いのち」が閉ざされた闇の時代……この混迷した不安な社会と時代を生きる、頼りない、不実極まりない自分。
―私たちは今こそ、あの末法濁世に真実の灯を掲げ、確かな人生を生ききった親鸞に学びたい。いつわりのない、確かな生き方を、心からうなずける「いのち」の真実を、人が人と成る道を。


著者紹介
山崎龍明(やまざき りゅうみょう)

1943年、東京都杉並区に生まれる。龍谷大学仏教学科卒業。同大学院修士課程修了。真宗学専攻。龍谷大学、駒沢大学講師を経て、現在、武蔵野大学教授、武蔵野大学仏教文化研究所所長、WCRP平和研究所員、浄土真宗本願寺派法善寺住職(毎月2回親鸞法話主宰)

ご購入は樹心社Amazon