亀井 鑛著

『今なぜ親鸞か』

四六判上製・248頁 定価1800円+税
 人生をどう生きるか。その答えをとことんまで問いつめたのが親鸞である。

 本書は“生きることの意味”を親鸞から学びとり、その学びを、自らの生活の事実と切り結んで、毎日の暮らしの中で確かめ噛みしめ歩んでいる多くの同朋たちの生き様を通し、真実信心に生きるとはどういうことかを説き明かし、混迷きわまる今こそ、親鸞の教え、親鸞の願いに生きよう、と切々と語り綴る仏教入門の書。


人間の知恵は無効だ!

  仏の智慧は、私たちのせっせと積み上げ、励んできた人間の知恵が、根本的に間違っているぞ、と呼びかける働きです。極端に言うなら、人間の知恵は無効だ、と。人知をゼロにまで捨象、捨てしめようと呼びかけるのが仏智です。人知がとどまるところのない自己肯定というなら、仏智は徹底した自己否定を、私に課してきます。「そこにのみ、真の人間の自由平等平和信愛が実現するのだぞ」と。
(著者・本文より)


○自分と出会う〜自分こそが一番恐ろしい存在〜(朝日新聞1999年11月16日より)

「人間と生まれて一生の間に、どうしても出会わねばならぬ人が、一人いる。それは自分自身だ」という言葉を聞いたことがあります。三十数年、私の学んできた仏教の道(他力の信心)は、このこと一つを呼びかけているといっていいと思います。「自己とは何ぞや。是れ人生の根本的問題なり」と、明治の念仏の先覚、清沢満之はいいます。人間の生き方(信心)を、親鸞は必須条件として、まず「自分自身を深く見つめる(深信自身)」といい、その時、「弥陀如来が約束される通年の学びを通り、本当の生き方に帰らされるのが深くうなずける(深信乗彼願力)」といわれます。三十幾年の学びを通じ、及ばずながら私も、そのこと一つを学んでいるのです。
 じゃあ、自分と出会うと、どういう自分が見えるのか。
 ある動物園で、「世界で一番恐ろしい生き物」と表示してある檻の前に立つと、そこに一枚の鏡が置いてあり、自分の姿が映るようになっていた、と聞いたことがあります。
 自分に出会うとは、世界中で一番恐ろしい生き物こそ自分だと気づかされる。仏道はまさにそれ。親鸞は、自作の信仰告白と仏法讃歎の歌、「正信偈」の中で、仏法に照らされて出会う自分を、「極重悪人」とか「一生造悪」とか、邪見驕慢悪衆生」と告白します。その語録「歎異抄」は、まさしく悪人の自覚を目覚ます、悪人正機の書です。つまり、世界中で一番恐ろしい自分の自覚。
 ところが、そこに立たされると、思いもよらぬ本当の人間らしさ、純粋な私に転じさせられるというのです。不思議な転回が約束されています。
 実際に私自身、経営する会社の中で、わが家庭で、隣近所とのお付き合いで、また仏教を学ぶ仲間同士で、およそ手に負えない自分中心な、わがまま勝手な自分をゴリ押ししていながら、ケロリとしている、世にも恐ろしい自分に、しょっちゅう気付かされ詰めです。いくら仏法を聞いても直りません。
 仏法は、「直せ」というのでなく、「それはお前に無理な注文。直らぬわが根性の恐ろしさに気付け」とうながします。そのわが愚悪性に気付かされた時、ひとりでに「済まぬ」とか、「恥ずかしい」の思いが込み上げずにいません。
 強いてそうするのでなく、自然にそうなる。する(自力)のでなく、なる(他力)のです。会社の長として、夫や父として、何のかのといっても結局、私一人が一番いい目をしている、甘い汁を独り占めしています。そんなやりたい放題のえて勝手ずくめの自分を、仏法から照らされて見せられると、連れ合いやわが子に対し、従業員に向け、腰が低く、砕かれた心で仕える自分に、ひとりでにさせられています。そこでは家族同士相和し、社内全員が連帯し合う世界が恵まれます。
 私は三十年来、仏教新聞、雑誌をご縁に、百人、二百人の念仏者の生活体験を取材し、記録させていただいてきました。最初、開口一番、「仏法から何を学びましたか」と問うと、口をそろえて、「自分を見せてもらいました、自分を知らされました」と告白されます。美しい、見上げた自分でない、世界中で一番恐ろしい自分と出会わされるのです。そして、そこから「明るくなった、楽に生きられる、心安らいだ。周りと肩組み合える、分かり合える」と、交々に広い、確かな、平らかな道に出られたことを、それぞれの実体験として語って下さっています。私自身、仏法に出会ったころ、四面鏡の函に入れられ、自らのみにくい姿に脂汗をタラーリタラリ流すガマの油だと実感もし、語ったものでした。


定価1800円+税
四六判上製272頁

こちらも好評発売中!
『われら念仏に生きる』

“自ら”の中に、“時代社会”の中に、“日々の生活”の中に、生きてはたらく仏法を、親鸞の教えを、具体的に生活体験的に実証し、その場その地に深々と根を下ろし根を張って、いきいきとみずみずしく生きている人。
 全国津々浦々のこうした“行証の人=念仏者”を訪ね歩いて、その信心と生活での確かな証しを丹念に聞き記した感動の聴聞記。

いのちのとどろきを!

 あらためて十余年間の記事を読み返させてもらって、私は今さらのように、大きく深い、そしてあざやかな感動を、胸いっぱいに覚えた。現代という、末法濁世と仏典にいわれる時代に、一人の人間が、真実の教えに出遇って、いきることの確信と感銘を、わが生活を通して実感した、その紅潮と高鳴りが、説得力のある共感を伴って、ぐいぐいと迫ってくるのだ。人間のいのちのとどろきだと思った。それはとうてい十年や百年では色褪せるようなものではない、と確信できる。
(著者・「あとがき」より)


<著者紹介>
亀井 鑛(かめい ひろし)
1929年、名古屋市に生まれる。旧制愛知商業学校卒業。1957年、タバコ販売店を創業、現在、(株)チヨダ会長取締役。
1961年以来、東本願寺(真宗大谷派)出版部に参画。名古屋別院刊「名古屋御坊」編集を経て、現在、東本願寺刊「同朋新聞」編集委員、NHK教育テレビ「こころの時代」の司会にも随時参画。
著 書
『われら念仏に生きる』『続・われら念仏に生きる』(樹心社)、『暮らしに生きる念仏』『暮らしに生きる歎異抄』(有斐閣)、『信は生活の力だ』『信に生きる人々』『聞法100話』(法蔵館)、『親鸞と生きる』『親鸞と歩む』『親鸞と戦争を痛む』(大法輪閣)、以上現在入手可能なもの。
名古屋市千種区在住。

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