宮戸道雄著『仏に遇うということ』
四六判上製 252頁・定価2000円+税 
毎日の暮らしが織りなす様々な葛藤や、ささやかな市井の出来事……門徒衆と住職の屈託のない世間話の中からあぶり出される、その生きざまの事実、その実相。
自らの闇が、仏の教えによって照らし出されて、そこから全く新しい歩み、仏の願いに生きる生活が始まる。
仏の智慧が、現実の生活の事実としてうなずける、円熟絶妙の法話集。
◆後生の一大事!!
どんな人にも皆、やり残した仕事があるはずです。その仕事とは何かというと、自分ということです。その自分を問題にするのが、お念仏の教えだということですね。商売に失敗して、しかもガンの宣告を受けて死にかかっている人でも、この生死の迷いを解決するという大仕事が残っているのです。
成功して金を儲けて、功なり名をとげたと言っている人にも、この問題が残っているのです。
それを「後生の一大事」と言いますね。
(著者・本文より)
汝、凡夫よ (中日新聞1996年9月8日 ともしび欄)
電車の乗客は、女子高生が多く、かなり混んでいたので、私は荷物を足元に置いて立っていた。そのとき、「おじーさん、どうぞ」と目の前の女子高生がすっと立ち上がった。
瞬間的に私は左右後ろを見回した。どこかに「おじーさん」がおられるかと。ところが目に入るものは女子高生ばかりではないか。
私はハッと気がついた。おじーさんとは、この私のことだったのか。確かに「おじさん」ではなく「おじーさん」とのばしたな。
私は慌てて座席に座らせてもらったものの、心中複雑であった。
「どうぞ」と言われたとき、左、右と見回したのは、無意識のうちに、私はまだまだと思い込んでいることの証拠である。
この女子高生からは、縦から見ても横から眺めても完全なおじーさんに違いないのに、ハイと受け取れない頑固者なのだ。
そのときにふと、いつかあるテレビで、高名な音楽家E氏と国語学の権威K氏とが対談していたことを思い出した。
対談のテーマは、司会者によると、近ごろ、お年寄りから、テレビの放送内容で、「あまりおばーさん、おばーさんと気安く言うな、自分の孫からおばーさんと言われるのは仕方がないが、連れ合いや、息子や嫁から、ばーさんと呼ばないでくれ、名前があるんだから、名前で呼んでくれ」というクレームが来るのですが、これは一体どういうものでしょうか、という話であった。
そのとき、国語学者のK氏が、身内で、おばーさんと言うときは「婆」ではなく「大母母」と書くものです。日本では、その家の幼児や子供の目線に合わせて発音してきました。例えば「おてて」「おめめ」というように「大母母」と書いて、「おばば」と言うのです。私は、これを聞いてへぇーと思った。ある老婆から「おばー」と言うのは、家の中で波風を立てる女と書くのですよ、と楽しそうにはなされていたので、「大母母」には驚かされた。
K氏の説明は、女として生まれ、稼ぎ、子供を産み育てる苦労と喜び、嫁姑、小姑らとの悩み煩わしさ。今度は自分が姑になってからの、さみしさ、腹立たしさ、しかし歳を取らねば分からぬ人生の味わいなど、女として出遇うすべてに出遇って、自分が育てられ、砕かれ、磨かれ、練り上げられて、人生の玄人になったのを「大母母」と呼んだのです。近頃の「おばーと言うな」のクレームは、恐らく「私はまだまだ磨かれ育っておりませんから」という謙遜の言葉ではないでしょうか……とのご意見でした。私は、本当にそうならよいのだがな、と苦笑しながら聞いていた。
でも今のK氏の「大母母」の論理に照らして、このじじいは、磨かれたか、育ったかと、自分に問いかけたり、電車の中で、「おじーさん、どうぞ」と言う、近ごろまれな心優しい女子高生の親切さを素直に受け取ろうとせぬ私は、テレビ局に抗議する、どこかのお年寄りとおなじところにおるぞと気付かされ、冷や汗が流れた。
電車を降りてから、「おじーさんと呼ぶな」と自分のまことの姿を受け取らずに、だだをこねている私が、じゃ阿弥陀さまは、私を何と呼んで下さっておられるのだろうか。それは罪悪深重の凡夫と呼ばれている。素直にハイと頭が下がったことが遇ったかしら、一度もなかった私に、また新しく出遇わされた。
故司馬遼太郎氏が「現代の日本に、凡夫がいなくなった」と嘆いておられた。仏の「汝、凡夫よ」の呼び声が、私自身のこととして受け止められた人は例え生活は苦しくても心豊かな人生を賜るだろうと教えてくださった。
われわれ日本人は、愚かより賢くなる、それによって利を得る、これが一大事であって、その人間の欲望を満足させてくれるように神や仏に祈るのが宗教と考える人が多い。まことに情けない限りではないか。
大体、人間の欲望に利用される神とか仏、そんなものは人間以下でしかない。
ありがたいことに、われわれは、人間に利用されるどころか、人間を「罪悪深重の凡夫」と、徹底的に否定し尽くす阿弥陀如来をいただいている。これは何ものにも代え難い日本人の財宝である。人間を肯定するならば、必ず人間から転落して、餓鬼畜生を作り出す。
 われわれはこの阿弥陀仏の人間否定の呼びかけによって、「人間失格」に目覚めることを通して、人間を取り戻すことができる。
でもやっぱり、私は「おじーさん」と呼ばれるのは、チョット。

<愛読者カードより>
仏教についての教科書になりました。初心者の私には「浄土真宗」とは何かをもっと勉強したいと、その気にさせてくれた本です。
(広島県 D・Kさん)
仏の道がいかにあるや、を教えられたような思いがします。日常の日暮らしで、己れが、己れが、とうぬぼれ、愚痴の日常生活を恥ずかしく思い知らされました。
(岐阜県 Y・Mさん)
浄土真宗の教えに導かれ、日頃からご聴聞させていただいている折、文字で読むご法話にその場で直接お話を聞かせていただいているようで、大変感動して読ませていただきました。もっと多くの方々に真実の宗教ということを知っていただく上で、とても心に響く一冊だと思います。
(宮崎県 M・Hさん)
仏教の専門的な書物や話の内容は誠に難しくて解釈が分かりにくいものだが、この本は対談式記述で優しい言葉で説明してあるので、仏様が身近におられるようで有り難い。読み始めたら次々と頁が進み、一気に最後まで読み通したい気になる。
(岐阜県 Y・Aさん)
愉しい限りです。まだ途中までですが、納得、納得。世間話のごとく、自分ごとの葛藤が漫才よりも面白い。若くなく、年寄りでもない自分自身、“我”を削り、魅力ある人間になりたいと願いつつも、落とせない“我”。始末に負えず困っておりました。これからは自己嫌悪に陥った時、業が湧いた折には、頁を開いて浄化するように心がけたいと思います。
(愛知県 Y・Kさん)
ほんとうの真宗の説明がよく伝わって、読みやすく、一息に読み終わりました。
すべて自分という人間を見つめることに欠けているから、人を悪者と判断するところに間違いが生ずるのである。真宗はそのところをよく世間に広めてもらいたいと思います。
(富山県 I・Mさん)
こちらも好評発売中!!

宮戸道雄著『家族の絆』
四六判上製 252頁・定価2000円+税

 今、「家族の絆」がゆるみ、断たれて、人間を生み育てる「家」の昨日が失われつつある。と同時に、「家」の原点ともなっていた“お内仏”も姿を消しつつある。

 本書は、「家」や「家族」を今一度見つめ直し、どうすれば、「家族の絆」が回復し、お念仏の心をいただけるかを、身近な話題を通してやさしく説き明かす、円熟絶妙の法話集。

著者略歴 宮戸道雄(みやと みちお)

1928年滋賀県に生まれる。
京都大谷専修学院研究科卒業。大谷派同朋会館・補導主任。大谷派四国教区・駐在教導。奥羽、高山、長浜各教務所長。高山、長浜、各別院輪番。大谷派宗務所・企画室長、研修部長を経て、現在、大谷派京都教区近江第11組・慶照寺住職。

著書
『家族の絆』『仏に遇うということ』(樹心社)、『念仏者の心得』(法蔵館)ほか

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