この子らは世の光なり
親と子と教師のための生きることを考える本
定価〈本体1800円+税〉
伊藤隆二著
私たちは何のために生きるのか?。
本書の、この子ら(知力にハンディキャップを負う子ら)をめぐるいくつかのエピソードが、この永遠の問いかけに答えてくれる!
私たちは、この子らにこそ、教えられ、導かれ、照らされて、“生きることの意味”に目覚め、自らの人間観、価値観の根底からの見直しを迫られている!
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この真実を1人でも多くの人に
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この子らをきたえて、この世に適合させるなどという教育はやめるべきである。この暗黒の汚れに汚れた世の中に、なぜこの子らを改造し、適合させねばならないのだろうか。適合したとたん、この子らも汚れた、うす汚い大人になるだけだろう。私たちこそが、この子らに教えられ、この子らに導かれなければならないのである。この世に光を送り、何もかも明るく照らし、安らぎとぬくもりと夢と希望を与えてくれるのはこの子らである。
この真実を1人でも多くの人に正しく理解してほしいという願いを込めて、本書を世に送る。(著者・「あとがき」より)
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| <愛読者カードより> |
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感動しました。はっとさせられ、驚かされ、心が洗われるようでした。新聞記者の仕事は、人間に関わることが多いようでいて、ともすれば表面だけの理解ですませてしまうことが多くなりがちです。こんなにも深く見つめることが出来るなんて……。
いつか、僕もこんな仕事をしたいと、生意気に思ってしまいました。(徳島県・堺さん) |
受験校に勤務していると、ふと忘れがちな心の優しさを、この書物より多く学びました。ただ得点をあげることにのみ必死になっている生徒にはそれはそれでいいのかもしれませんが、思いやり、弱者へのいたわり、人の本当の美しさなどかんがえさせられることも多々あります。ぎくしゃくした人間関係のいやらしさのくだらなさを意識せずにはおれませんでした。(福井県・高木さん) |
吸い込まれるように読みました。
読み始めの時の心と……
読み終わった時の心が……
なんだか自分の心が選択されたような気がしました。自分も豊かな心を持てる人間になりたい……勉強になりました。(奈良県・松田さん) |
この本を読み終えて初めて気づきました。私なんかよりも、「このこら」の方がよっぽど人間らしいということに。私たちは健康であるからこそ、もっと素直に純粋に生きなければならないと思いました。そして素直になることが今一番大切で大変だということも痛感させられました。(東京都・武藤さん) |
| 生きているということがうれしくなりました。ありがとうございました。(鳥取県・田渕さん) |
言葉では言い表せない気持ちです。心が洗濯されました。ありがとうございました。(大分県・長沢さん) |
鳥肌が立つゾクゾクするくらい素敵な本です。心が洗われました。
読み終えてしまったことがとても惜しい、そんな本です。(埼玉県・大久保さん) |
大変感動しました。そして私が日頃考え、人間を物質価値ではかるような現代に対し、人間らしい心を取り戻させてくれる光が「この子ら」であることを確信しました。(東京都・高玉さん) |
| とてもよかった。つまらないことで悩んで、気軽に死のことを考えたりする自分が情けない。頑張らなければ……という気持ちが出た。(大阪府・下村さん) |
本嫌いな私が一週間もかからず読めました。すごく胸が熱くなりました。私自身の心、もう一度考え直そうと思いました。(奈良県・広藤さん) |
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○メディアの皆さまにご紹介いただいた一部を紹介させていただきます!○
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知恵遅れの子との交流淡々と
(朝日新聞・家庭欄/1988年10月24日より)
● 純粋で清らかな世界「愛護」の視点に批判。人に優しくなれる本 ●
教育心理学者で横浜市大教授の伊藤隆二さんがこのほど出した著書の中で、知恵遅れの子どもたちをさして「この子らは世の光なり」と言っている。
特別な教育や愛護、保護の対象と見られがちだが、いまのような世の中でこそ「純粋で真心いっぱいの、清らかな人びと」が安らぎとぬくもり、夢と希望を与えてくれる、というのだ。
その近著『この子らは世の光なり』は、伊藤さんが35年近く続けている知恵遅れの子どもたちとの交流の一端を紹介したもの。数百人の中から、伊藤さんが特に教えられ、勇気づけられた思い出深い子どもたち16人を紹介している。
絵が好きな10歳のアキラが六本の腕を持った自画像を描いた。腕の一つひとつに自分の好きな大事なものを持っている。どうしても六本いるのだ。耳も鼻もないのにへそがあるのは、亡くなったお母さんとの思い出から。
この「へんな絵」を拒んだ先生に殴られたアキラは、クレヨンを手にしなくなった。絵は何よりも、心を表現するものなのに……。
全身まひ状態の静子に声をかけにたくさんの人が訪れ、にこっと微笑むのを見て心の屈託を解き放っていく話もある。静子はそんな人たちから、成人のお祝いに贈られた晴れ着を着た3日後、亡くなったそうだ。
こんな、人によってはたわいないと思うかもしれない思い出を、伊藤さんは淡々とつづっていく。読み進めていくうち、どんどん引き込まれていくから不思議だ。なんともいえず心が落ち着き、人にも自分にも優しくなっていくのに気が付く。肩の力が抜け、自然に生きようと……。
番外にあたる最後の一話、第17話は、ひたすら栄達を求めてきた老年の実業家が主人公。知恵遅れの子どもたちと遊ぶ中で、陥った孤独から救われる話だ。
もちろん実話で、伊藤さんはこの老人に「私がほしかったのは金でも地位でもなかった。友人であり、なさけであり、愛だった」と叫ばしている。
知恵、能力がある人は金、物を身の回りに集めようとあくせくする。限りない人の欲望がどれほど人間関係をぎくしゃくした、たがいに居心地の悪いものにしていることか。
伊藤さんは知恵遅れの子どもをどう遇してきたかを振り返り、「虐待」から「保護」、そして「この子らに世の光を」の時代を経て、「精薄児の父」といわれる故糸賀一雄さんの提唱した「この子らを世の光に」の時代と整理した。伊藤さんは「糸賀さんの言葉には『世の光に』まで高める、ある種の傲慢さがある」としてさらに一歩進め、「この子ら」の、いまあるがままの姿こそを「世の光」としたい、と言っている。
「この理解なしには、世の中に適応させるため教育、訓練を強いて、子どもたちを曲げてしまういまの風潮の誤りを正せない」とも思っている。
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教育は司法や行政と離れて
(ファミリー談話室・安田陸男/毎日新聞1988年12月11日より)
「誠治よ、チャプリンになれ」の章を読んでいて、思わず「ウッ」となった。何度も胸が熱くなった。伊藤さんの書いた「この子らは世の光なり」の1節である。
小学6年の誠治君のことで、担任の堀田先生から相談を受けた伊藤さんは答えた。「誠治君にためされているんです。たえて誠治君の味方になってほしい」。
校舎のガラスは割る。給食用の皿におしっこ。教室中にゴキブリをまく。「学力は3年程度。性格は暗く粗暴。落ち着かず向こうみず」が教師の記録だった。
雪まじりの日、誠治君が校庭で真っ裸になって泥の中をころげ回り大騒ぎ。「誠治もどれ、カゼひくぞ」怒鳴る先生の声で騒ぎを知った堀田先生は、パンツ一つで、泥の中を政治君の方へころがって行った。誠治君を抱きしめた。
「お前はつらかったんだなあ。もういいぞ。安心していいぞ。わしがお前の味方だ。うんと甘えろ」。誠治君は全身で泣いた。
その日から、誠治君は生まれ変わった。「みんなにめいわくかけてごめんな」。級友のひとりひとりにあやまった。
いま中3の誠治君はクラスきっての人気者。演劇クラブに属し、老人ホームを訪ねては、お年寄りから笑いを誘う。名優チャプリンを目指す誠治君は久しぶりに会った伊藤さんに言ったという。「堀田先生のためにも頑張る」と。堀田先生は、泥んこの日以来肺炎となり、あっという間に亡くなってしまった・・・・。
「学者的でイヤなんですが、外被的属性という言葉があります。成績、学歴、名誉、権力、金・・・・これらの属性を、人間は、懸命に身につけ、偉くなったと思うんですね。身につけばつくほど、人間の本質が見えないのに。“この子ら”といわれる子たちには、そんな属性は関係ないんです」
知恵遅れとか障害児と呼ばれる“この子ら”の歴史をたどると「はじめは虐待、次に慈善の心から“この子らに世の光を”を訴えられたのを、糸賀一雄先生(戦後初の公立福祉施設近江学園をつくった)が“この子らを世の光に”と転回させたのです。私は、この子らは、光そのものじゃないか、と思ったのです。われわれの目のくもりを取るほうが先なんじゃないかと。
「教育というのは、本来、生き方そのものを教えることです。政治、経済が優先される子の社会で、それを支える人材養成、人づくりであってはならない、と思うんです」
行政の1機関となっている文部省だからこそ、時の政治に左右される。リクルート疑惑に巻き込まれる文部次官さえ生まれる。
「教育は、司法、立法、行政の三権分立から離れて四権分立として考えなければいけない、というのが私の主張なんです」
専攻は知能病理学。脳の一部欠損が人間の精神活動にどんな影響を与えるか。という研究室の中の学問だそうだ。学生時代、アルバイトで施設に通い、子どもたちとの触れ合いの中から志した基礎研究という。
「学問自体は現場とは関係ないんです。親ごさんの相談を受けるようでは、研究者として大成しない、と忠告されましたが・・・・」
「家内もいろいろやってましてね」という妻・清子さんは、ホンジュラスとフィリピンの子どもたち4人に学資などを送る“精神里親”になっているほか、韓国被ばく者救援やサハラ砂漠・サヘル地区の緑化運動など国際的な救援市民団体のメンバー。「安息日がなくてはいけないわねって話し合ってるんです」という清子さんとの間に一男一女。
なぜか心の中で叫んでいた。「ありがとう」と。
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障害児の姿に「生きる意味」を知る
(東京新聞・1988年11月10日・「心のページ」より)
「この子らは世の光なり」という本がこのほど出版された。著者は横浜市立大学文理学部教授の伊藤隆二さん。長年接してきた障害児、とくに知恵遅れの子供たちを通して、その純な心に触れ、人間の本性そのままに生きる彼らこそ、実は人間の生き方を我々に教えてくれるのではないだろうかと説く。リクルート疑惑に代表されるように、社会全体がどこかゆがんでしまったいま、ふと立ち止まって一人ひとりが考えなければならない問題が、この1冊の本に込められているようだ。(米山郁夫編集委員長)
○現代人の“病”浮き彫りに
伊藤さんの専門は知能病理学の研究だ。脳の一部が損傷したとき、知的活動にどんな影響を与えるだろうかというのが研究テーマだという。そんな関係から、多くの障害児、とくに知恵遅れの子供たちを見てきた。
「この子らは世の光なり」は35年近く続いている知恵遅れの子供たちとの触れ合いのなかから、とくに思い出深い子供たちを、一つの物語のようにつづっている。
自画像を描くとき、どうしても六本の腕を描いてしまうアキラ、人一倍力もあり、相撲が強いのに、人を倒すことより花を見ていたほうがいいというミノル、知恵は遅れていても、決して人を裏切らないエイジ……、みんな伊藤さんがじっと温かい目で見守ってきた子供たちだ。
本の中で伊藤さんは、こうした子供たちを、ただこの世に適合させるための教育だけが正しいことかどうか、一つの価値観だけで人間を律し切ってしまっていいのだろうかと、静かに問いかけているようだ。
「こうした子供たちを見ていると、逆に、わたしたちがいま抱えこんでしまった“病”というか、日本の現状が浮かび上がってくるような気がします」
と伊藤さんは指摘する。
気持ちのゆとりの欠如、宗教心の欠如、目先のことだけに追われる視野の狭さ、自然の中で生きている感覚の喪失、生きる意味の欠如……こうしたことが、いまの社会をゆがめてしまったと言うのだ。
「たとえば学生たちに、君の生まれてきた役割は何かと聞くと、10人中9人はわからないとか、そんなこと考えたこともないという返事なんですね。生きる目的が何もないんでしょうかね、いまの学生たちは」
ある施設で出会った子供たちの中で、自分の思うようにならないと、自らの腕を噛んだり、体を痛めつける子供がいた。その施設の指導者は、気長に子供に付き合っているうちに、カエルに異常な興味を示すことに気付いた。じっといつまでもカエルとにらめっこを続ける子供。一年ほどたって、ある日その子供は、指先に墨汁を付け、カエルの絵を描いた。見事な出来栄えだったという。カエルの次にはトンボ、チョウと、次第に対象が広がっていった。
「いま人は速さを求めすぎます。根気よく子供に付き合うと、必ず何かが見えてくるんです。そういう教育が、いつの間にか忘れ去られてしまったんですね。彼らは知恵遅れという仮の姿をとりながら、実はわれわれに警告を発するために生まれてきたのではないかと、そんな気がすることがあります。教えるつもりで接していて、逆に教えられることが実に多い」と伊藤さんは、体験を踏まえながら語る。
パンをもらえば、必ず半分を隣にいる子供に手渡すのを見て、伊藤さんは、お互いに奪い合うことで成り立っているようなこの社会の実体を思う。知らない人にも人なつこい声で、おぼつかない言葉であいさつをする子供、合理的に割り切らないで、奇想天外な発想をする子供たち。
○ありのままを素直に受けて
「ありのままを、そのまま受け入れて生きている子供たちです。本当に幸せに彼らは生きているんじゃないでしょうか。知恵遅れの子供たちは、かつては家の片隅に追いやられていました。それから保護の時代、さらにこの子らに光をという時代、そして精薄児の父といわれた故糸賀一雄さんは“この子らを世の光に”と提唱しました。わたしはいま、この子らの姿こそが、わたしたちを導いてくれる光だと思います。彼らはこの世に光を送り、何もかも明るく照らし、わたしたちに安らぎとぬくもりと、夢と希望を与えてくれます。彼らと接しておよそ35年になりますが、いま、そのっことを1人でも多くの人に知ってほしいと思います」
学生時代、伊藤さんは「幸福学」を学ぼうと思ったという。人間とは何か、どう生きるかという自らへの問いかけである。大学に、そんな学問はなかった。心さびしい人の、ほんのわずかでも力になれると思われることを学ぼうと伊藤さんは決心した。
○今度は彼らに教えられる番
知恵遅れの子供たちとの生活はすべて伊藤さんのボランティアである。各地の施設を回り、障害児教育にたずさわる教師らの相談に乗り、子供たちと語り……。
伊藤さんの提唱で始まった運動の一つに「誕生日ありがとう運動」というのがある。
誕生日の日、六百円のバースデーケーキの代わりに五百円のケーキを買い、残りの百円を寄付してもらい、その基金を障害児のための啓蒙運動に当てようという試みだ。来年で25周年を迎える。
「知恵遅れの子供に対する世間の考え方も少しずつ変わってきました。今度は彼らに教えられる番です。彼らをしっかりと見つめることで、一人ひとりのいままでしばられていた価値観から解放され、人間らしい生き方を考えたいと思います」
伊藤さんはこう結んだ。
障害者に学ぶ心?人間観・価値観の変革迫る
(牛島義友/1989年1月21日・キリスト新聞・読書欄より)
伊藤先生は博識な学究である(教育心理学)。しかし最近は心の温かい親切な障害者の友、相 談者に変わられた。
本書は障害者の親たちを慰めるだけでなく、一般の人々のこころを清め人生に光を放つ本であ る。
障害者に関するものはとかく、悲壮感をそそったり、改心を強いがちであるが、ここには面倒 な理屈も、説教じみた説話も、また心をゆさぶる深刻なものもなく、障害者の生活からほのぼの と沸いてくる経験で読者の心を清めてくれる。
ウメコちゃんは障害児学級の皆からいじめられ、そのシャツを破られたことがあるが、ウメコ は怒るどころか、「ありがとう、ウメコ暑かったので、やっと涼しくなった」とニコニコしてい たという。また母親も、「よかったわね、これで、ウメコにつぎあてのやり方を教えられる」と 喜んでいたという話などは高僧の説教のように心をうつ。また彼らが世の光となりうるっことを 素直に教えてくれる。
2、3時間の気楽な読書で心を温めてくれる、不思議な平易な所である。
副題に「親と子と教師のための生きることを考える本」とあるが、決して論文調のかたい本で はなく、読者対象に中学生をもふくめたもので、カットも入れてあって童話集のような感じを与 える編集である。
17の話が収められているが、どのエピソードにも“しょうがいじ”(障害児)が登場し、「それ 生産だ、能力だ、お金だ、地位だと狂っている」(あとがき)、「生産能力のある人間は地位も 高いし、人間としての価値も高いなど、とんでもない人間観がはびこり、まかりとおっている」 ことを痛烈に批判しつつ、わたしたちが変えなければならないのは人間観であり、価値観である ことを迫る
世はまさに入試優先、成績万能のわが国教育界の大勢の中にあって、いわゆる知能遅滞児とか、精神薄弱などはともすれば型通りの特殊教育のわくに閉じ込められようとしている。
こういう風潮の中で、弱視、難聴、肢体不自由児など、心身上に何らかの問題をもつ子どもらに格別の支援と助成を与えて、彼らのよりいっそうの健全な発育発達を促進しようとする人たちも、決して少ないわけではない。それでもやはり、学校・家庭・社会を通じて、栄達をめざすエリート主義が現代の世相の中にみちみちているのは、争えない事実といえよう。
ここに少数の心ある人々がささやかな情熱をそそぎ、「この子らを」「このこらに」という温かい救援の手をさしのべようと活動をつづけているのは、敬服のほかない。
伊藤隆二さんは、「この子らを」「この子らに」ではなくて「この子らは」として、これら障害児のいのちの光を見つめて教育指導の原点を新しく設定された。
たとえ、身体の一部、あるいは局所に短所や欠陥とおぼしきものがあっても、その子の前にひざまづいてみれば、そこには何人によっても、いかなる理由によっても、いかなる場合でも決して侵されることのできない生命の尊厳性が見出されるに違いない。
教育界には形式的な「平等・博愛・区別なし」の根本理念がまかり通っている。たとえば、学校教育の場でも、一斉に均等な指導を行うのが最高の方法であるように錯覚されている場合が少なくない。しかし、それらは千種万態の子らを真に育成する妥当な教育法といえるだろうか。
この子らには特別の養護と支援が必然的に要請される。ここに、皆がわが子としての愛情と技術をもって手を引くべきではないだろうか。目の不自由な子、音の聞こえにくい子、手足の動かせない子、彼らはひとしくそれぞれの周りの人々の助成を待ちあぐねているはず。今日の学校教育では特別の場合を除き、それらに対する適切な配慮がまだ十分でないように思われる。
伊藤さんは巻頭に手の六本ある観音像を描いた知恵遅れの子の絵を紹介している。私も以前に、観世菩薩とか観音菩薩に関心をもって聖典を読んだことがある。千手観音は千本の腕をもち、その各々の手の掌の中に一眼を備えているとか。一切の衆生を救済するために手を千本も持ち、千人の衆生を同時に見守るために千眼を用意しているといわれる。
思うに、人々には千種の個性と能力のちがいが実在する。それらに応じていろいろの手段と方法を用いて救済しようとする仏心の表現、それが千手観音の慈悲であるに違いない。
このような、何かと不自由をかこち遅れをもっている子どもにこそ、菩薩たちのお助けの苦心が重点的に注がれるはずである。
こうしてこの子らは仏たちの大いなる光明をうけて世の光ともなり、また世の鏡ともなるであろう。なぜならば、彼らの一人ひとりが阿弥陀如来のいとし子であり、仏性を備えていると聖典に説かれているからである。
世間では今、教育産業のハイテク化、少数有力予備校の地方進出、大学入試における「新テスト」への切り替え、分離分割方式の拡大などで、再び教育への関心が高まりを見せている。しかし、その中味はどうかといえば、どうしたら有名校へ子供を入れることができるか、いかにして栄達の道を確保するか(実際はどんな学校や会社へ入ろうと、持続的な努力と創造性なしには、それも不可能なのだが)といった極めて自己中心的で表層的なものが大半を占めるようである。こういう風潮の中で最も心配されることの1つは、人間とはどのような存在なのか、教育の原点は何なのかという本質的な問題がますます忘れ去られていきつつあることである。このままで、われわれはほんとうに豊かな21世紀を迎えることができるのであろうか。社会的な敗北者、弱者、劣者がすべて切り捨てられる時代になりはしないのであろうか。
そう心配する方は、読者の中にも多かろう。われわれは、21世紀を目前にした今こそ、そのような現実を直視し、改めて人間と教育の問題を考え直してみなければならない。
最近、教育心理学者の伊藤隆二氏が『この子らは世の光なり』というタイトルの書物を出版された。思うに本書は、上述した根本的な問題を再考する上で重要な契機となりうる好著なので、以下にその概要と1、2の例話を紹介し、主に宗教的な観点から若干のコメントを試みてみたい。
さて、本書は、著者が約35年間にわたって知恵遅れの子供たちに教えられてきたことの一端を纏めたものであり、全17話のうち16話はさまざまの程度の障害児、第17話は障害児によって価値観を覆される老実業家が主人公である。また、タイトルは、障害児への社会の対応の仕方が「虐待」の時代、「保護」の時代を経て、「この子らに世の光を」の時代が到来したことを評価しながらも、それはまだ「この子ら」の本質を正しく理解したものではない、という著者の見識が前提となっている。著者によれば、この子らは生まれながらにして「世の光」であり、「生まれたときから死ぬときまで、いや死んでもなお光でありつづける」。だから、「この子らは世の光なり」というほかはないのである。
なぜ著者が、ここまで透徹した障害児の見方(障害児という呼称も、著者の立場に立てば適切ではない。しかし、著者もおそらくそうなので、逆説的なニュアンスを込めてそのまま用いる)をもつに至ったのかを問うならば、その基底には、著者自身が知恵遅れの子供たちによって人間への目、教育への目、そして自己への目を開かれたという純粋体験があろう。すなわち子供たちと著者との感応道交である。この意味において、著者の体験と思惟は宗教性を帯びているといってよかろう。
では、著者にそのような目覚めをもたらした子供たちとはどういう子供たちであろうか。
例えば第二話に、イチローの「買いものカゴ」の話がある。イチローは医者から「自閉症」というレッテルを貼られた、ことばのない子である。著者はこの子が六歳の頃に出会い、絵をかいてもらう。かれが書き上げた絵は、黒いクレヨンで縦横に線を引き、ほぼ一面を黒く塗りつぶしたものであった。ところが実は、イチローは初め、その画用紙に、黄色い丸を三つ、赤い丸を二つ、そして紫色の丸を一つ書いていた。それが、著者がその六つの丸が何かを確認させるために絵本を取りに30秒ほど机を離れた間に黒く塗りこめられてしまっていたのである。著者はつづる。
(B)(=完成した黒い絵)を仕上げたイチローは、かたわらにいるお母さんの顔を見上げた。お母さんはすかさず「そうね、そうね、よく覚えていたわね、イチローちゃん。ありがとう」とほほえんだのだ。イチローの頬が大きくゆれた。彼は笑ったのだ。うれしかったのだ。
著者は驚く。そして、お母さんの説明を聞いて、最初に書いた六つの丸が、それぞれバナナ、リンゴ、ブドウであり、最後に塗った一面の黒は、お母さんが持ち歩く買いものカゴを示しており、この絵を書かせた動機が、自分の好きなものを買ってくれたお母さんへの感謝の表明であったことを知る。著者はこのときはじめて、「ことばのない子どものこころを読みとるための辞書」を手にした。つまり、自分の強い思いとそれを象徴する画像を正直に書いたイチローを知るためには、まず常識を捨て、目と耳と心を共有しなければならないことに気付いたのである。著者にとってイチローとかれのお母さんは、「同事」の実践の尊さ、すばらしさを教えてくれた菩薩といってよいであろう。
もう一つ紹介しよう。それは第14話の静子の話である。静子は3歳のとき高熱に見舞われ、寝たきりとなってしまう。そのため家庭からは光が失われ、家族みなが死の渕をのぞくような状況に立ち至る。そういう中で、彼女の母が著者のもとを訪れたとき、著者は「苦しいでしょうが、お母さん、笑ってください」と助言する。それから半年以上が過ぎ、静子は笑うようになった。一条の光が家庭に差し込んできた。やがて著者は、さらに塀の隅に木戸口を作り、そこから外が見える縁側に静子のベッドを置くように勧める。間もなく木戸口が作られ、それが開かれると、次第におばさんたちが1人、2人と木戸口を通って庭に入り、静子にことばをかけるようになった。そのつど静子は「ニコッ」と微笑む。その笑顔は、姑と仲たがいした嫁、子どもにいらいらしている母たちのこころを慰めた。そうこうしているうちに、近所の中学生や高校生が静子をリヤカーに乗せて外に連れ出すようになった。福祉の心の輪が広がっていった。やがて20歳の成人になったとき、静子は近所のおばさんたちから贈られた晴れ着を着て、記念の写真を撮る。そしてその三日後、静かに息を引き取る。晴れ着を着、みんなに囲まれて微笑んだ写真一枚だけを残して。
静子には、社会的な意味では何の能力もない。ただ、声をかけてくれる人に対して、「ニコッ」と微笑むだけである。しかしその微笑みは、まさしく神の微笑み、仏の微笑みであり、そこには僅かの邪念も入っていない。それゆえに、彼女の笑顔を見た人びとは「天地がひっくりかえったような衝撃をうける」のである。「和顔愛語」ということばがあるが、静子の笑顔こそおそらくまさにその「和顔」であり、彼女は笑顔だけで「愛語」さえも全うしていたといってよいのではなかろうか
このような事例に接してみるとき、われわれはそれらを鏡として、この世界が、また人間の魂が、総じていかに欲望の拡大再生産によって汚され、歪められてきているかをつくづくと感ずる。しかし、救いはまだある。それは、とりもなおさず、そのことを感ずることができる人びとがいるということであり、そのような感覚を呼び覚ましてくれる人びとが活動する場が残されているということである。われわれも伊藤氏とともに、いわゆる知恵遅れ(実は知恵に輝く)子らを世の光としてかれらに学びつつ、現代社会一般における人間観、教育観の転換にも微力を尽くしていきたいと思う。
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| <愛読者カードより> |
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| 私はこの本のせいで1日中外出することができませんでした。なぜと言って、泣きっぱなしで目が真っ赤にはれ上がってしまったからです。見え透いた美談等にはひっからない疑い深い私ですが、疑う暇もないほどこの本に引っ張り込まれてしまいました。読み終わった後も涙が止まらなく、美しいものに飢えていた自分も発見しました。やはりどこかで見ている大いなるもののあることが感じられました。(愛知県・武居さん) |
読み始めてから最後まで、時を忘れて読みました。本当に日常の自分たちは、つまらぬことで大切な人生を過ごしてしまっているのだ、と実感しています。学生時代「社会福祉」を専攻したものの、今は全くそれがかけ離れた世界のもののようです。雑事に埋没し、育児に流され、大きな、長い目で世の中や、人々を見ることを忘れていました。また、いつの日か、自分にできることを見つけたいものです。(神奈川県・鑓田さん) |
| ありがとうございます。汚れた心がこの本を読んだ一瞬だけかもわかりませんが洗われたように思います。あとがきにありますよう、この本が人に読まれますよう私も努力します。(兵庫県・藤原さん) |
価値観について考えさせられたし、障害児についてのみ方、考え方も少しだけではあるが、変わったように思う。今の自分が本当の意味で幸せなのだろうか……? とも思えてくるような本だったと思います。(大阪府・久保木さん) |
一度読んで まず泣き、
二度読んで、考え、
三度読んで ようやく内容理解できました。
自分はまだ障害児と関わり始めたばかりだけど頑張っていこうと思った。(東京都・山口さん) |
感動いたしました。自分の心の罪をあらためて気づかされました。“世の光”である子供たちと接することのない世の中の仕組を悲しく思います。大勢の方たちにこの本が読まれますようにお祈りしております。(兵庫県・田中さん) |
| いろいろな私欲に追いまくられクタクタの頭の中、そう、お金よりもっと素晴らしい人の心が子供の中にあるんだ、私の子供もそう物差しも思い切って捨てて、じっくり子供と取り組みたい、私も成長したい。ありがとうございました。(愛知県・土谷さん) |
感動しました。私も長年障害児の指導にあたっていますが、子供たちの笑顔にいつも救われています。つい待つことを忘れ、私の尺度に子供を合わせようとしてしまいがちです。反省しました。改めて素晴らしい子供たちと出会っていることに感謝したいと思います。(静岡県・秋鹿さん) |
まさに「この子らを世の光に」である。一気に読みました。久しぶりに涙を流しました。
子供は宝です。周り見る目が変わった思いです。(新潟県・村山さん) |
ただただ感動の一言です。
人の心が乾燥している現代に大きな潤いを与える。一冊だと思います。知人や共に読むよう勧めたいと思います。(愛知県・団塚さん) |
| 憤ることや怒りのこみ上げてくる出来事の多い日常に、真の優しさを投げかけてくれたように思っております。1歳の娘の子育てに追われておりますが、つい“大切なこと”を見逃しがちです。これからの子育ての“基本を思い出す本”として、いつも手元におきたいと思います。(神奈川県・大竹さん) |
ぜひ、皆さんに読んでもらいたい本です。
子供がもう一話読んで……とくり返すうちにあっという間に読み終えてしまいました。もったいないなあ、まだ読みたいなあ、と思いながら本を閉じました。ただの同情の涙に終わらせるのではなく、子供とともに福祉について、また本当に価値あるものについて話し合うことが出来ました。(長崎県・松野さん) |
| 一気に読んでしまいました。常識の中で暮らしている私には珍しく感動的でしんみりさせられました。「かわいそう」なのは、純粋さをなくした私たち、世間一般人ということもしりました。が、すこしだけ弁解させていただくなら、この子らを生じさせた原因は何だろう? 何が原因でこうした症状をきたしたのだろう?という思いも常にありました。健常者ばかりでも暗黒の世、これらの子ばかりでも世の中は暗い。双方に歩み寄りがあって初めて、光を放つのではないかとつくづくと思いました。 |
わが子のクラスで担任からいじめられ、はやばやと養護学校へ移らねばならなかった知恵おくれの子がいましたが、ずっと気になっていて、この本を読み、自分自身、何か、この子たちに偏見を持っていたことに気づき、こんな純粋な世界があるということを信じられぬほど自分の心は濁っていたのかと思い知らされました。いつもいつも手元において読み返したい本です。
日々の雑事に追われ、またまた心が濁ってきそうだなと思ったとき、それを沈殿させて澄んだ状態にしてくれる薬のようなすばらしい力を持っています。 |
私はこの本を読みながら何度も中断しました。涙で読めなくなったのです。久しぶりに大きな感動を受けました。“感動は人を変える”と言いますが、私の価値観、人間観、そして教育観も変わると思います。
こんな本に出会えたことを感謝いたします。ありがとうございました。(長野県・筒井さん) |
人間として本当に大切なものは何なのか、目には見えないもので、一人一人の人生、生き方、考え方を尊重することが大切だと思いました。外見や偏見で何事も判断する世の中で地道に一生懸命頑張っている人たちを、心から応援したいと思います。そして、世の中の人みんなが同じような心を持って頂ければ私も嬉しく思います。(宮城県・菊地さん) |
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