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上田幸子著/切り絵・上田豊治『こんにちは、上田豊治です。』
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![]() (おしくらごう/上田豊治作) 「豊治くんはいいわねえ。できることがあって、有名になって、もう自閉症は治ったのじゃないの」と、よく言われます。「自閉症だからできるのよ」私は心の中で言います。 |
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○「こんにちは上田豊治です。」を読んで
巻頭詩でいきなりぐっときてしまいました。 (「岡山県自閉症時を育てる会・会報 13号(1999.5)」より) |
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トロントを訪れた自閉症の切り絵画家
-上田豊治さんの母、幸子さんが語る33年間のドキュメント- 10月下旬、トロントで開催された「自閉症世界シンポジウム」に日本から招待された切り絵画家、上田豊治さん(33)は10月28日、日系文化会館を訪れ、作品の展示、切り絵の実演、母親の幸子さんのお話があり、地元在住者との交流のひとときを持った。会場には沢山の人がつめかけ、椅子が足りなくなるほど。豊治さんの新作「ナイアガラの滝」の実演を間近に見た多くの人々からは、感動と賞賛の声が上がった。以下は幸子さんの講演内容から。 ○切り絵の原点 豊治は3歳の頃、自閉症だと診断されました。多動、偏食、言葉の遅れ、こだわり、意思が通じないと起こすパニック・・・私はいつも豊治の手をつないでいました。そうしないと、すぐに飛び出して、勝手に遠くへ行ってしまうのです。手をつないでいないときは、自転車に乗せて萩の町をあちこち回りました。 私が洋裁をしているそばで、はさみと紙を豊治に持たせていれば、彼はおとなしくしていました。紙を切ることが大好きで、私が切りかけていた洋裁の型紙を目を離したすきに、続きを切ったこともあります。 ある日、交通標識が載っていた手帳から、標識だけをきれいに切り抜き、それを1本の割り箸に貼りつけました。標識の大きさは直径1センチに満たない小さな印刷です。それを32個全部切り取って、割り箸の一番下は手で持てるように残して、裏側にも貼りました。裁縫用の糸きりばさみを使って、こんなに小さな標識を切り抜き、しかも驚いたことに、切ったあとの紙はすべてつながったままなんですよ。彼が3歳のときの、切り絵の原点だと言える作品です。 ○手が器用 萩市立小学校の指導学級に入学した豊治の手を引いて、2年間は毎日一緒に通学しました。8人の生徒がいる学級で、私はこの子たちのお母さんになろう、という気持ちで、2年間はずっと学校にいて、先生のお手伝いをしました。 担任の先生は、毎日の日記指導で、豊治の手を持って字を書かせようとしました。最初の頃は先生の手に噛み付いて、いやがっていたのですが、先生との信頼関係ができると、豊治はいろいろなことが、どんどんできるようになりました。 日記の中で初めて人物を描いたことがきっかけで、絵の指導を先生から受け、豊治は絵を描き始めました。そして、だんだん上手に描けるようになり、展覧会で賞をもらうほどになったのです。 中学の指導学級に入学後は、各教科によって先生が変わるという環境の変化のためか、豊治はよく保健室に逃げ込んでいました。言葉の伝達の下手な豊治をわかっていただくために、私は先生との連絡帳を書き続けました。 小さい頃から手が器用で、描くこと、切ること、組み立てることが大好きな豊治は工作が得意で、彼が夏休みに作ったクラシックカーやクレーン車は、萩市科学展で連続入賞しました。 多動な豊治は、家を飛び出してはポンコツ置き場で車を眺めていることがよくありました。車が大好きなのです。また、車やオートバイのプラモデル作りが好きだったので「豊くんのプラモデル展」を市民会館で開催し、たくさんの方が見に来てくださいました。 ○好きなことを…… 高校3年のとき、美術の先生が豊治に切り絵を教えてくださいました。有名な滝平二郎さんの切り絵を模写したのが、作品第一号です。 それから2年生のときに描いた「ミシンを踏むお母さん」の絵を切り絵にしました。洋裁をする後姿の私の特徴をうまくとらえ、とてもよく似ています。 高校を卒業した豊治は、板金塗装工場へ就職し、晴れて社会人としての第一歩を踏み出しました。小さい頃から車に興味があり、プラモデルが大好きな彼は仕事をとても気に入り、喜んで工場で働く毎日でした。 しかし、豊治のていねいすぎる仕事ぶりは時間がかかり、しなくてもよいところまで仕上げたり、職場の人とのコミュニケーションや人間関係にも問題がありました。彼は汗と油にまみれたつなぎを着て、板金塗装の仕事をいっしょうけんめいにやっていましたが、もし私が亡くなった将来のことを考えると、豊治が好きなことで生き生きと仕事をするようにさせたい、と思いました。 高校の卒業式の日、美術の先生から「切り絵を続けさせてあげてくださいね」という言葉が、ずっとその後も頭の中に残っていました。 豊治には「2年間仕事をしたのだから、こんどは絵の勉強をしようね」と説得しました。本人は工場を辞めるつもりはなかったのですが。 ○「カナダへ行きたい」 その後、萩での「三人展」が成功し、豊治は本格的に切り絵に取り組むようになりました。個展を開いたり、いろいろな賞をいただいたり、几帳面でこだわる彼の性格が「切り絵」となって生かされ、花開いたんだと思います。 初めての海外旅行が、カナダだったのも不思議な人との縁を感じます。東京・日本橋三越で個展を催していたときに、テレビのインタビューで豊治が「カナダへ行きたい」と答えたのを、今回、日系文化会館で私のスピーチの通訳をしてくださった遠山旬さん(バーリントン在住)のお母様が、たまたまテレビをご覧になり、すぐに三越の個展会場へ来てくださったのです。 その場で「私の娘はカナダにいて、孫が自閉症なんです」と言って、豊治の画集を買ってくださいました。その本をカナダに送り、旬さんが自閉症センターに本を持参して紹介してくださったことがきっかけで、トロントの自閉症世界シンポジウムに招待されたのです。 海外へ荷(切り絵)を送るのは大変でした。でも、豊治を励ます会の人たちと5人で来て、たいへん良い旅ができました。 シンポジウムの会場では、切り絵を展示し、豊治が実演するまわりは、黒山の人だかりでした。自閉症をかかえる多くの人々と出会い、暖かい人たちと抱き合って、まだその感触が残っているんですよ。もう、お金では買えないような素晴らしい経験でした。 ○人とのつながり 切り絵の制作は、下絵をおこすところから始まります。豊治は白いトレーシングペーパーにシャープペンシルで、下絵を描いていきます。画家の中には太い筆ペンのようなもので、1本の線で下絵をおこす人もいますが、豊治の場合は切るための2本の線を緻密に描いていくのです。 写真を見ることもありますが、ほとんどは記憶している情景です。写真なら写っていないところや、影の部分がありますよね。豊治の絵はそんな細かい部分もすべて描きます。 それから黒い紙の上にトレーシングペーパーを重ねて、カッターで切り込んでいきます。ひとつの作品を仕上げるのに、何ヶ月もかかります。出来上がると、豊治は、白と黒の重なったままの絵を私に渡してくれます。 一番最初に完成した切り絵を見るのは、私なんですよ。いつも感嘆の声をあげながら、そーっと下絵をはがし、そのぬけがらを丁寧にのばして、私はとっておくんです。ぬけがらは、切り絵を産む母のように思えてなりません。 豊治の切り絵は、すべてつながっていて、ひとつも切り離れていません。人と人との縁も見えない糸でずーっとつながっているように思います。切り絵は人との出会いのようです。 今回のカナダ訪問で、豊治の切り絵の世界、そして人とのつながりが、新しく広がっていくといいなあと思っています。 (「日加タイムス」2002年11月15日号 より) (志摩夕美さんのHP「志摩夕美のおもしろカナダライフ」より転載させて頂きました) |
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○素晴らしい出会いに感謝
日野皓正さんのコンサートで、上田さん親子のことを熱く語られているのを聞いて、初めて上田豊治さんという切り絵画家を知りました。自閉症が今ほど知られていない頃から、子供を守りながら大切に育てて来られたこと、深い愛情と温もりが伝わってきて、緻密で繊細な彼の作品の表現しているものが、人に感動を与えるのでしょう。これからも母親として見習い多くのことを学ばせていただきながら、豊治さんのファンとして、より素晴らしい作品づくりを応援したいと思います。ぜひ、沢山の方に読んでいただきたい本です。 (tsaraさん/amazonレビューより) ○何度も涙ぐみ…… ○この本を読んで元気になる人がいる ○お母様の努力には頭が下がります ○純粋に生きて ○母親としての気持ちがわかります。 ○努力をおこたらないことが |
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著者紹介 上田幸子
1943年、山口県萩市に生まれる。 1961年、山口県立萩高等学校卒業。津田公証役場に就職。白百合洋裁学院(夜学)に入学。 1965年、結婚、上田家へ。 1987年、共同作業所「香生工房」の設立に参加、ボランティアとして通う。池田建築設計事務所勤務。 1998年、同事務所退職。 2002年、アトリエ“とよの庵”開展。 現在、豊治の切り絵の個展等を手伝っている。 |
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