いのちの風光~浄土へそして浄土から~/藤谷 知道著

宇宙の真ん中のここで、永遠の今を、如来の一人子として生きていく。時代の闇を破る原理として「浄土」の思想を甦らせんとする書。
(四六上製/本体¥2000+税)

【オウムを生んだ近代的知性の暴走 中外日報より】
「親鸞上人の浄土観について改めて考え始めると次々と課題が現れ、新しい発見につながった」と語る大分県宇佐市の藤谷知道・真宗大谷派勝福寺住職が『いのちの風光-浄土へ そして 浄土から』を刊行した。本書はエッセーや講演録、論考を修正したものだが、いずれも「浄土」の受け止めについて論じている。それは現代人が宗教の世界に入ろうとする時、必ずぶつかる「宗教の世界にあふれている非科学的な物語を、どう受け止めればよいか」の問題でもあるという。
藤谷住職によると「浄土」を科学的知性によって理解しようとするならば、「つまずきの石」にしかならない。オウム真理教の元信者たちは大まじめに宗教を求めながらも道を誤った。それは知性によって頭脳を断ち、すべてを解決できると思っていたからであり、そこに「近代が推し進めてきた知性の暴走を見る」と指摘する。
藤谷住職は、幼い時から周囲とズレを感じて思春期には善悪意識が強くなり、わが身と世の中を厭うようになった。大学では学生運動の影響を受けて社会生活が送れないほど行き詰まったが、大谷専修学院に入学して学院長だった信國淳氏らに導かれ、念仏の僧伽の中で「少しずつ命を回復することができた」そうだ。「浄土へ記入すれば、浄土の徳で煩悩は転じられ信心の智慧を賜り、はじめて娑婆の身を生きていく者になれる」と述べている。

【大分合同新聞より】
広報紙などに執筆した文章をまとめた前半は、SMAPの「世界に一つだけの花」などを引き合いにして仏法の智慧をわかりやすく説く。後半では、自身の体験を踏まえて「科学は物理的な存在を解き明かすものなのに対し、宗教は『私が生きる』意味を解き明かすもの」と整理した上で、無明の闇を破って生きる教えとして親鸞の浄土観を考察する。信国淳大谷専修学院長(故人、宇佐市出身)との出会いやその教えなども紹介している。

【文化時報より】
藤谷氏も指摘するように、戦後教育で育ってきた世代は、科学的に論証できぬものを信ずることができない。そのため、その存在を科学的に立証できない「浄土」の問題が、現代人が宗教生活に入ることができない「つまずきの石」になっていると自身の経験から語る。
氏は、この「つまずきの石」を「科学は物理的な存在を解き明かすものに対し、宗教は『私が生きる』意味を解き明かすものである」(第三章「世界観としての如来・浄土」)と領解することで乗り越えた、という。
だがしかし「つまずきの石」の先にあったのは、単なる知的理解の拡大であって、念仏生活ではなかった。氏はそれを「知の闇」といい、自分の方からは判らない「透明な壁」とも言っている。
第四章「浄土へ そして 浄土から]では、知性にとっては「つまずきの石」であった「浄土」こそが、仏道を歩むものの前に立ち塞がる「透明な壁」を突破する原理であることを七高僧の歩みに遡りながら論証していく。
そして最後に、現生十種の益によりながら、「浄土」へ往生することにより、私たちが「宇宙の真ん中のここで、永遠の今を、如来の一人子として生きていく」ことが可能になると説く。

【著者】
1948年 大分県に生まれる。
1973年 東京大学文学部印度哲学科卒業
1975年 大谷専修学院入学。
1977~84年 大谷専修学院指導補
1988年 真宗大谷派勝福寺住職継承

勝福寺HP http://shoufukuji.chu.jp/

著書:『いのちの御物語』(自費出版・2000年)/「悲の時代」(真宗大谷派教学研究所『教化研究』126号所収・2001年)/『恵信尼の生涯』(日豊教区坊守会・2007年)他

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