立った! ついに歩いた!~脊髄損傷・完全四肢麻痺からの生還/右近 清

事故により首の脊髄に重い損傷を負い、瞬きだけとなった女性が、ただひたすら人としての尊厳を追い求め、在宅で凄絶なリハビリに果敢に挑み、ついに、立ち、そして歩いた!―それは、“神経”という、神の領域への挑戦。「一生寝たきり」という医学の常識を覆し、希望とは、勇気とは、そして生きることとは何かを問いかける迫真の全軌跡。
(四六判上製/本体¥2000+税)

【〈著者略歴〉右近 清(うこん きよし)】
1941年、北海道小樽市生まれ。妻・子供二人(男)。現在、妻とゴールデンレトリーバー3匹。 家業は父の代から続いているフォトスタジオを経営。小さい頃より動物生態と、はるかな天体に興味を示して熱中。
1993年6月、隣人の森 照子さんが自転車事故のため一瞬にして完全四肢麻痺となる。訓練のきっかけは、一旦中枢神経を損傷したなら、修復、再生は決してあり得ないとの定理定説に「本当なのか?」との拭い難い懐疑から。 右近清ホームページ 〜脊髄損傷〜立った!そして今、ついに歩いた。【完全四肢麻痺からの生還・その全記録】 このホームページを見て、全国からたくさんの脊髄損傷の当事者の方々が小樽を訪れています。 2006年1月19日のフジテレビ『アンビリバボー』で、この記録が放映され、大反響!

【希望の椅子(右近さんのリハビリを受けた方々の勉強会) 挨拶より】
ごあいさつ
皆様いかがお過ごしでしょうか。こうしてネットでご挨拶をしていますが私には小樽に来た皆様の顔と当時の傷付いた身体と心が鮮やかに蘇ってまいります。
森(敬称略)が倒れてから今年で14年になります。8年間の辛酸・苛酷を極めたリハにより、何とか立ち、歩くことができました。その全記録が九州の「はがき通信」から途轍もない通信媒体であるネットで紹介されました。しかし当時の反響は「インチキ」「宗教の勧誘」「脊損者を食いものに」「まともじゃない」この非難と中傷、そして嘲りだったのです。
ところがどうしても諦め切れず、いったいどのようなリハで手足が動いたのか、もしそれが本当なら、と最後の望みを賭けて小樽に来た方が5人いたのです。この方々こそ私がいう第一期生です。
それから6年後の2007年4月現在、北は網走、南は沖縄、そしてアメリカ・オーストラリア・カナダを含め250人以上小樽に来ています。
ということはご家族を含め私達は実に1000人以上の生の姿に接していることになります。
いま生の姿と言いました。それは一切の虚飾もなく、ただただ立ちたい、歩きたい、そして指を動かしたい、そのため我が身を切り刻む一念でリハルームで繰り広げられるそれこそが生の姿です。時として、私とスタッフは圧倒され、深い感動に言葉を失うことはしばしばです。
在宅リハに移行したとき何が一番大切か。
それは訓練内容と項目ではありません。持続、これだけです。
森はご存知の通りC2~5の超完全四肢麻痺であり、ピクリとも動かない四肢にいま思っても鳥肌が立つ凄まじい訓練漬けの日々が8年間続きました。それを支えたのが希望という持続でした。
在宅リハに移行した皆さんが必ず突き当たる壁があります。
それは道に迷うのです。「果たしてこれでいいのか」「ここまでが機能亢進の限界」「精一杯やったがこれ迄」「他の人は立っているのに、私の障害はやはり駄目か」このギリギリの苦悩と葛藤です。
そこに1歩足を踏み入れたら最後、これこそが最重度脊髄損傷者としての一生の迷い道です。

前々から近隣各県の交流拠点を作ってくれないかとの強い要望がありました。
しかし私は今迄小樽に来た方達の相互交流を図ることは一切しませんでした。何故か。

とても時間がないこと。もう一つは全国多々ある顔見せと食事会、そして年に数度のツァーとなる惰性を恐れたからです。
ところがここにきて事情が変わりました。
それは47都道府県全てから来ていることと、熱意を持った方が自ら発起人として立ち上がったからです。
今回兵庫の堺谷さんが強い決意を以てこのような交流と勉強の場を作る為に奔走してくれました。堺谷さんの息子さんはバイクによる重度頚髄損です。
ご夫婦共とても身体と心の余裕などありません。しかし障害当事者の親だからこそ「何とかしなければ」との思いからの立ち上げはそれだけの重みと何より説得力があるのです。

脊髄というのは言うまでもなく人の意をそのまま四肢に伝え、筋肉を収縮させるコードです。
その本線から支線とも言うべき枝である末梢神経が全身に張り巡らされています。
この本線に傷を負ったなら支線まで命令が伝達されず動かないのは当然です。
ならば常に脊髄を励まして褒め、叱咤激励の刺激を与えて活性化させるのは当然と思いませんか? 脊髄は非常にお調子者なんです。
褒めればやる気を起こし、諦めれば目覚めることなく、深淵の底に沈んで深い眠りにつき、以後反応しなくなります。
小樽に来た皆さん全員が経験済みですが、私の訓練は手足を動かすのは二の次です。

全力を挙げて取り組むのは「人間の尊厳を取り戻す」この一語に尽きます。
つまり精神的立ち上がりです。目標をしっかり掴み、そこに焦点を絞って攻め続けた時、脊髄は眠りから醒めて微かな指令を流してくれます。
ほんの僅かな筋肉の動きと震え。時折かすめる動くような気がするとの自覚症状。
私はそれを「早く動かしてくれ!」という神経と筋肉の切ない悲鳴と捉えます。
とはいえ在宅リハでは挫折と諦めの攻めぎ合いが常に付きまといます。
その意味で単なる食事会という交流ではなく、勉強会と合同訓練を通じて希望と勇気を与えられる場となったとき、これは忌まわしい脊損と闘う我が国では画期的同窓会となることでしょう。

最後になりました。

私は現在250人以上の方達の小樽訓練に携わり、これからも増え続ける一方ですが今迄ただの一度も訓練を「指導」するという字句をメールでも言葉でも使ったことはありません。
指導とは教え導くという意味です。
私がこよなく尊敬する我が国を代表するPT・OTの先生からも指導という言葉を一度も聞いたことはありません。
現代医学においても神経学・脳科学は未だ多くの謎に包まれ、ほんの一部に解明の端緒が開けたばかりであり、この究明において世界でも熾烈な分野はご存知と思います。
ましてや脊髄(神経)という神が通る路の怪我によって表われる複雑多岐に亘る障害の表れはまさしく百人百態です。一人として同じ症状は決して有り得ません。
この訓練に携わると携わるほど複雑精緻な神経が織り成す摩訶不思議な世界に驚嘆し、畏敬の念と畏れを覚えるのです。
重脊訓練に携わる者として何が一番大切か。
それは脊髄を損傷した方と同じ目線でものを見、同じ心で考えることです。
ですからC5の方が小樽に来たなら私もC5になり、森がC2の時、私とアシスの美子は四肢麻痺になり切り訓練を行って来たのです。
訓練を受ける者・行う者同士リハルームでの動きに感動し、泣き、笑いしてこそ傷付いた脊髄神経は希望と喜びに震える、と確信しているからです。
私は脊髄損傷者ではありません。が、彼等とご家族の悲痛な呻きは誰よりも知っている積りです。
それは指導という立場で上から見る気持ちで接しないことを肝に銘じているからです。
(右近 清)

私は2006年10月に突然体調を崩して救急搬送され、以後2ヶ月以上全く動かぬままベッドで寝たきりとなりました。様々な検査を繰り返しても原因が分からず、ようやく判明したのは足の傷口からの感染症だったのです。ここにも重度頸髄損傷者として合併症の恐ろしさを知ったのです。
退院したのはその年の暮れであり、立つ事も歩くことも全く出来ない状態でした。
その時思ったのは「あぁ 私はこれまでだったんだ」と「もう一度何としても歩く」との激しい心の揺れでした。この年の小樽リハは12月28日で終了であり、翌年は1月5日から開始です。
僅か一週間しか私が賭ける余生はありません。
14年前、55歳の時の事故で頸髄に深い傷を受けて8年間の訓練を経て何とか立ち、歩けるようになりましたが、その時の状況と今回は全く違います。
先ず年齢と体重の増加、そして当時と違い厳しいカリキュラムを組んだリハは一切やっておらず、私が歩く時はトイレに立つときだけでした。
しかも決定的だったのは残り時間が一週間しかない、という厳しい制約だったのです。

そのため訓練を受ける私とそれを行う右近さんとスタッフとも必死でした。
二度と立つことは出来ず、寝たきり生活となるからです。
そこで原点に戻り、3人掛かりで徹底した立ちだけに絞ったのです。
ところが訓練開始後5日目に不思議なことが起きました。
当時の凄まじい訓練を身体が覚えていて蘇ってきたのです。それは体幹維持と腰の安定、バランスのとり方、そして足の運びです。これ一つとってもいかに長年の持続が大切かを思い知らされたのです。今では美子さん一人の介助で何とか歩くまでとなりました。

小樽に来る皆さんを私が見ても身体のあちこちに機能が残っていることに驚くばかりです。
C2は肩がほんの少し上がりますが、私の場合それさえ一切無かったからです。
右近さんは常々言っていますが、小樽訓練の6日間とは、損傷を免れ、僅かに機能する個所を寄せ集め、それを最大限に引き出すことにあります。
それにより動いた手足に感動して希望を確かなものにすることが何より大切と思っています。
ですから本当の意味での機能回復は在宅訓練しか有り得ないのです。
今回堺谷さんが小樽仲間の皆さんとの交流と情報交換、そして合同研修という素晴らしい出会いの場を作ってくれました。これこそが身体と心に傷を負った方々同士の崇高な善意からの開設です。

小樽に来た皆様に対して私は何のお役にたつことは出来ません。皆さんが私の目の前で、人間の尊厳を再び取り戻すために繰り広げる激しい訓練をただ見ているだけです。
こうして感動を頂いているのです。
そこに14年前の私を思い出します。それは峻烈極まりない8年間の訓練においても右近さんは前の挨拶文でも言っておりますが指導する、という立場と態度は一切ありませんでした。
精神道場で共に闘ってきたと今でも思っているのです。
皆様に対してもし何かのお役に立つのであれば私を見て、希望と勇気をしっかり掴んでお帰り下さい、と言う事しかできません。
訓練最終日には皆さんは私の手を握って嗚咽します。しかし握り返すことも出来ません。
身体は右近さん初めスタッフの皆さんが動かし、傷付いた心は私がいくらかでも動かした、と思って下さるなら最重篤頸髄損傷を負った私に与えられた最後の使命と思っているのです。
(森 照子)

◎希望の椅子 ホームページ
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